門井建 | Hajime Kadoi
映像ディレクター
1989年大阪出身。2015年に独立。2019年に屋号を『アナマチフィルム』に。屋号の由来は、活動のコンセプトでもある「あなたの町の映像屋さん」から着想し「人と人の繋がりを感じる “町” を大切に、これからの未来のための映像を制作したい」という想いから。Visionは「そこにある、まだ見ぬドラマを」。Missionは「感動・美しさの探究」を活動の軸に掲げる。
大阪府大阪市在住
Tel:09098779131
Mail:info@hajimekadoi.com
SNS:Facebook / Twitter
<主な受賞歴>
「Oregon Short Film Festival 2021 fall」最優秀国際映画賞ノミネート
「横濱インディペンデント・フィルム・フェスティバル 2021」ドキュメンタリー部門 最優秀賞
「DMM CM AWARDS」ビジネス賞
「ASK?映像祭2020」入選
「天川村フォトコンテスト」天川村新発見賞
<主なメディア掲載>
grape -心に残る動画メディア-
バウンシー | 未来のライフスタイルが見える動画メディア
Yahoo!ニュース etc
かどいはじめ のこれまで
「寺があるからいいよな」って言われるのが、嫌で嫌で仕方がなかった。
プロフィールにも書いている通り、僕は副住職としての一面もある。生まれも育ちも、大阪の下町にある寺だ。しかも長男。周りの人間は当たり前のように「将来はお寺を継ぐんでしょ」と口々に言ってきた。高校・大学時代は友人に「お前は寺があるからいいよな」って言われたりもしてきた。
「かどいはじめ」として、 ではなく「後継ぎ」として存在が定義されているような感覚。
僕はそれが嫌で仕方がなかった。
小さい頃からずっとそうだった。
『自分の人生を周りが勝手に決めるな』 『自分の人生は自分で決める』
そんな事を腹の底に貯めて生きていた。
それでも動き出せなかった学生時代
そんな事を感じながらも、気がつけば学生生活も終わりに近づいていた。 当たり前のように、周りの皆は「就職活動」をし始めた。僕も最初は流されるまま就職活動の”フリ”もしてみた。 しかし、そこでまさかの逃げの一手をとってしまう。
「寺があるしええわ」
自分が心底嫌がっていた言葉に甘えてしまった。
大学も卒業する頃には、周りの友人たちは「会社の同期が・・・」という話をしたりと、今までいた世界から飛び立とうとしていたのに、僕自身は何も動き出せずにじっとしていた。自分だけ飛び立てなかった。それがすごく情けなくて、悔しかった。
「あぁ俺は逃げたんや。。」 「俺は弱いな。。」
その事実が、当時の自分をより一層苦しめる事になった。
かどいはじめ フリーターになる
大学も卒業し、周りの皆が就職し社会人になった頃、僕はフリーターとしてアルバイトをしていた。 卒業間際に、両親に「寺の仕事だけをやるのは考えられへんから、バイトする」と言い、近所の居酒屋で働いていた。
ちょうどその時に、あるテレビドラマで戦後のアメリカに在住していた日本人の話をしていた。そのドラマで日本人がアメリカで差別をされていた事実を知り、「あ、俺はこの世の中の事何も知らんねんや」と感じ、とりあえずの目標を立てる。
「自分の知らない世界を見てみたい」 「バイトで金貯めて、自分の知らん世界を見に行こう」
それが、門井建の22歳の当面の目標になった。
カンボジアの子供たちとの出会い
旅資金もある程度溜まり「そろそろやな」と思っていた頃、姉の友人のKさんから偶然「はじめ君、カンボジア行ってみない?」と誘ってくれた。僕は迷わず「行きます!」と答えた。今になって思うと、この決断が自分の人生を変える出来事になった。
その3ヶ月後くらいに、実際にそのKさんと「カンボジア」と「ベトナム」に出かける事になった。その中で「カンボジアで孤児院行ってみたい」となんとなくのイメージで発言し、シェムリアップ近郊の孤児院に行くことになる。
孤児院にお邪魔し、子供たちと色々と話をした。
その時に自分の価値観を根底から覆す出来事が起こる。
その子供たちが、僕に夢を打ち明けてくれたんです。
「お医者さんになりたい」
「ガイドさんになりたい」
「教師になりたい」
子供たちは一人一人、 俺に自分の夢を話してくれた。
満面の笑顔で。
豊かさってなんだ?あの子達は「恵まれない子供たち」って言われてるけど、ホンマにそうなんか?色々大変なこともあるやろうけど、夢や目標を持って必死に生きてる。それになんやねん。その笑顔は。
心が痙攣し、体にまとわりついてたサビが落ちて行く。
そして体がふっと軽くなった。そんな感覚に陥ったことを覚えてる。
「あぁ。就活から逃げてよかった。。」
逃げたからこそ、あの子達に出会えた。
逃げたからこそ、僕は今ここにいる。
自分のダメな過去を肯定できた瞬間だった。
やりたい事が見つからない
カンボジアから帰国後、僕は相変わらずバイトをし続けた。何を隠そう「やりたいこと」なんてなかったから。バイト→カンボジア→バイト→カンボジアと、バイトでお金を貯めてはカンボジアの子供たちに会いに毎年一回はカンボジアに行くという生活を約4年間ほど続けていた。
その4年間でも色々なことがあった。今まで避けていた寺のイベントごとにも顔出すようにしたり、カンボジアで感じたことの旅日記をつけるブログを始めたり(1週間ほどで挫折)、カンボジアでゲストハウスを始めようと思い資料を漁ったり。(1ヶ月ほどで挫折)
無我夢中で「面白そうな事」にチャレンジしてみた。
それでも、本当に「やりたい事」は見つからなかった。
とりあえず初めてみるものの火がつかない。燃えるようなモノを感じない。 自分は一体何がしたいのか?どうなりたいん?見えかけては消えて行く、自分の輪郭を探す毎日。
そんな時だった。 ある友人が僕に声をかけてきた。
「はじめ。俺の結婚式の余興の動画作ってくれへん?」
め、めちゃくちゃ面白い。。。
人生で初めての動画制作。なんとなく面白そうだから、とりあえず引き受けていた。招待される他の友人とアレコレ話して考えて、iMovieと家庭用のビデオカメラでせっせと1つの動画を作り上げた。今考えると、素人以下レベルの動画だった。しかし、確かに心が疼いていた。
映像ってこうやって作られてんのか。
あれ?なんか、、おもろいぞ。。
もっと良い映像を作ってみたい。
気がつけば、ひたすらYoutubeで動画を漁っていた。いわゆる独学というやつだ。動画を漁り、1つ1つどうやって作られてるのかを想像する事から始まっていた。簡単な動画を作ったりしていた。
そして、確かに自分の心に小さな火がついた。
これを仕事にしてみたい。
かどいはじめ 映像作家になる
そこからバイトで貯めた貯金のほとんどを使い、動画の編集に耐えうるPCとビデオカメラを購入。その勢いそのままにFacebook上で、自称映像作家として宣言し、周りには普通に軽く引かれる。それが2015年の夏のこと。
余談だが、どんな映像を作っていたのかというと、実家の寺を撮ったり、友人のPR動画みたいなものを撮ったり、自作でおもしろ動画を作ったりして勉強していた。
そして2016年の1月。人生で初めて仕事として映像制作をさせてもらうことになる。その出来をクライアントさんに見てもらった時に「めっちゃいいです!何人かにも見てもらったんですが、伝えたいことも伝わっています!ありがとうございます!」と言ってもらえた。
その時に 「あぁ。俺はこの道を突き進もう。もっと良いモノを作って、沢山の人たちに感動してもらいたい」。
自分の選んだ道は間違えてない。
やりたい事はコレだと確信した。
人生を賭けれる仕事。僕にとってはそれが映像制作だ。
そして今、思う事。 それは「感動してほしい」から仕事をしているという事だ。
初めて映像を作った時に感じた 「もっと良いモノを作りたい」という感覚。 これが今の自分の信念になっている。
初めて”仕事”で映像を制作した時に言ってもらえた「めっちゃ良いですね!ありがとうございます!」という言葉。 これが自分が制作した映像によって、感動してもらえた最初の瞬間だった。
僕は「感動」こそが、 全てのクリエイティブの生みの親だと思ってる。
それは、カンボジアのあの子たちが教えてくれたことだ。 僕を突き動かしたのはあの出会いだった。
『人が見て、心が動く』 そんな映像を作りたい。作っていく。
それが自分にできるコト。それが僕の人生だ。