「ものづくり」とは、いのちの記録なのかもしれない。
梅雨に入る少し前、僕は妻と二人で奈良県の川上村にいた。
目的は「いにま陶房」の鈴木ご夫妻を撮影するためだった。
新緑美しい季節で、陶房前の芝桜も満開に咲いていたのを覚えている。
そんな恵まれた季節の中、僕は彼らを撮影させてもらった。
インタビュー撮影と仕事風景の撮影というベーシックなものだったが、全て撮り終えるまで約四日間の時間がかかった。今になって思うと、その四日間は僕にとって、すごく貴重でかけがえのない時間になった様に感じる。
「ものづくり」とは、いのちの記録なのかもしれない。
そう感じたのは、あの四日間があったからだ。
インタビューだけじゃなく色々な場面でお二人のお話を聞いていく中で、彼らの作る器は今までの人生で起こった事、出会ったことがきっかけになっていた。インタビューの中でも、そうお話しいただいている。
新しい家族との出会い。病。その中で起こる変化。
きっとこのご夫婦は「今」を必死に生き続けている人たちなんだと思う。
ものづくりは、作り手の手によって作り出される。
それは陶芸だけではなく、絵や音楽や写真、映像だってそうだ。
その手を動かすのは、作り手本人の意思や想いとも言える。
では、その意思や想いというのはどこから来るのだろうか。
何もない宇宙の様な所から自然発生するようなものなのだろうか。
きっとそうではないはずだ。
僕は「無」から「有」は生まれないという言葉を信じている。
種から花が咲くように、全ての物語には始まりがあったはずだ。
それを与えてくれるのが「出会い」というものなのかもしれない。
もの、人、出来事。色々なモノに出会う中で、人はその考え方や価値観を形成していく。それはいつまでも未完のままで、人生の最期まで終わる事はない。
その流れの中で「ものづくり」に携わる人たちは、それを作り続ける。
手を使い、足を使い、口を使い、頭を使い、ものづくりを全うしようとする。
そして、その流れの中でまた何かと出会う。
泥臭く感じるかもしれないけど、その泥臭さの中に僕は「美」を感じた。
「ものづくり」というのは、いのちの記録だ。
変わり続ける毎日の中、ものを作り続ける。ものにいのちを宿してゆく。
同じ毎日が一つも無いように、一つとして同じものは生まれない。
僕はそういう瞬間に立ち合いたい。
今回の撮影している時に、そんな事を感じていた様に思う。
「カメラは外の世界と出会うきっかけである」
僕が敬愛する是枝裕和さんが本の中でそんな事を言っていた。
その言葉を僕も全面的に支持する。
カメラがなければ出会えなかった瞬間にこれまで何度も出会うことができた。
これから先もカメラを通して「ものづくり」という言葉を見つめていきたいと思う。
きっと、それが僕にとっての「ものづくり」だと信じたい。